断捨離は苦手です。

捨てられないモノもブログなら残しておいていい気がする。

【ネタバレあり】ぼっちで「花束みたいな恋をした」を観てきた

周りの人がいろいろ感想をつぶやいているのをみて、ぼっちで「花束みたいな恋をした」を観てきました。柄にもなく感想をしたためてみる。ネタバレとか気にせず書いてるのでこれからみる方は注意してください。

周りはカップルだらけでちょっと居心地の悪い印象はあったけど、休日にいきなり思い立って予約して映画見に行くのってすごく良いなと思いました。


恋愛経験が少ない男並みの感想としては、なんであの2人が別れなければいけなかったのかがわからなかった。ファミレスで号泣するシーンで麦くんが言っているように、付き合った当時のときめきがなくても、空気みたいな関係になれれば一緒にいるっていう選択は十分に可能だと思う。「今どんな本読んでるんですか」なんて初々しいやりとりをするのは確かに恋愛の醍醐味だと思うけど、死ぬまで相手にときめいていることってなかなか難しいと思うし。

もっというと、恋人関係と夫婦関係ってこれほどにも違うのに、一般的な感覚として恋愛の延長上に結婚があるのがあんまりしっくりきていない。どこかのネット記事で「恋愛はお互いに好きなものが同じであることが大事だけど、夫婦になるとお互いに嫌いなものが同じであることが大事」とか書いてあってなるほどと思ったことがあったけど、もしそうなら恋人と夫婦は全くの別物なのではないか。

恋人関係の先に夫婦関係があるとするならば、おそらく恋人と夫婦の間にはときめきの喪失みたいな壁があって、ときめきを失ってもなお一緒にいたいと思う、そういう一段階進んだ状態になれるかどうかが大事なのかもしれない。片方はときめいているけどもう一方はときめいていないみたいなねじれた関係や、ときめいていないことをお互いに悩んだりする、いわゆる倦怠期とか呼ばれる期間を頑張って乗り越えて、ときめかなくなっても次のフェーズに進めると確信できたら結婚するんだろうか。

そうだとすれば、ふたりが出会った瞬間はあくまで結婚ではなくて恋愛のことを考えるしかなくて、長い間一緒にいた結果として次のフェーズに進める確信が得られるかどうかを数打って確かめないといけないのかな。お互いに成長してその度に相手の新しい面を好きになれれば同じ人と何度も恋をすることはできると思うけど、相手の新しい面を好きになれる場合となれない場合があって、その違いはなんだろう。結局数打って当たった外れたってやらなければいけないんだとしたら、我々には数を打つ以外になす術はなく、運要素が大きすぎる気がしてつらい。

いやー違うのかな、お互いにたまりにたまった不満とかが爆発してどうでもよくなったってことなんだとすれば、話し合いの機会をもてばよかったのにっていう単純な結論なんだろうか。うーんわからん。

「最後のジョナサンシーンは、実はあんたたちの出会いはありふれたものだったんだよっていう思いも込められてるのでは」というコメントを見て、なるほどなあと思った。自分が経験した出会いってすごく運命的なものを感じて神聖化しがちだけど、一方でこの映画が「恋愛のあるあるを詰め込んだ」とか言われてる以上、このコメントは的を得ているんだろうな。

それはそうと、趣味があれほどまで一緒だと逆に友達になっちゃいそうだなと感じなくもない。相手が好きなことを語ってもらって、うんうんなるほどそれって面白いね、って言えるくらいの、方向性は一緒だけど好き度は違うくらいの関係がちょうどいい気もする。

まじで恋愛ってなんだろうね。幸せになりたい。

オカンとボクと、時々、オトン

本日から、一人暮らしすることになりました。

話が具体的に動き始めたのは2週間ちょっと前、あれだけ長いこと一人暮らししたいといい続けていたのに、年始の段階では今月末に一人暮らししているとは夢にも思っていませんでした。

きっかけなんて些細なもので、父親と喧嘩したというただそれだけのやつ。「そんなに言うなら一人暮らしするわ、この三連休は内見しに行くからな」「おう、そうしてくれよ」そんな感じで三連休を控えた金曜日の朝に喧嘩して、暇だった三連休をその勢いで内見三昧にし、2件目の仲介業者に紹介してもらった物件にしました。木曜の夜はまだ話すらなかったのに、日曜の夜には物件が決まっていました。緊急事態宣言とはなんだったのか。

石橋を叩いて叩いて永遠に渡ろうとしないタイプなので、人生って勢いだなっていうのがここのところ身に染みて感じられます。一人暮らしする決定的な理由が今までなかったのも家族とそこそこ良好な関係を築けていたからだし(当然実家が関東だからってのは大きいけどね)、5件内見予約をしていたのに2件目の不動産屋で決めてしまったのも、数十件の物件をぶん投げてきて選別を要求し、「もうこれだけ見たらこの予算でこれ以上の物件ってないな」と思わせてくれたからでした。

これだけ急に話が決まってしまったので、母親は割と驚いたようでした。あれはこうするのよ、これはここに注意してね、とかいろいろ教えてくれてありがたいけど、そんなに心配しなくてもなんだかんだやっていけるからね。

一方、喧嘩してから父親とはあまり口をきいていませんでした。この物件に決まりましたと報告しても、物件の情報すらろくに確認せず、はい、わかりました、とそれだけ。父親と喧嘩したから一人暮らしが決まったようなものだけど、そろそろ親離れ子離れの時期だよねってお互いに思っていた、その点では気持ちは同じだったのかも。

そんな父親ですが、やはり引越し当日となると思うことがあるようで、引越しのトラックがくるとそわそわしたり、段ボールが搬出されていくのを動画に撮ったりしていました。引越しが終わって真っ先にLINEをくれたのも父でした。

気張んないでね〜、マイペースで、自分なりに、好きにのんびりやってね

やっぱり親はよく見てますね。特に話題がなければ話さない程度の関係だけど、いやだからこそ、親は子供のことをじっと見ているのかもしれません。 いつもだったら長文でラインしてくるのに今日は短文な母親も含めて、我々らしいなあとしみじみ思った週末でした。

26年とちょっと、ありがとうございました。これからもお世話になります。まあ1時間半で帰れるし、ちょくちょく顔見せに帰るからね。

【アカペラ】コロナウイルスで、お前は変われたか。

この記事は、「アカペラアドベントカレンダー2020」21日目の記事です。

media.acappeller.jp


コロナウイルスで世の中が一変したと言われて久しいですね。アカペラを取り巻く環境も大きく変わりました。スタジオ練習をするにも気をつかうようになり、リモートで練習できないバンドは自然消滅せざるをえなかったし、思い出のライブハウスは次々と閉鎖し、僕のピッチパイプはほこりをかぶってしまいました。

そもそも、今年行われたあらゆる活動がコロナウイルスと無関係ではいられなかったように思います。仕事も趣味も人間関係も、勉強も運動も。何もかも全て。

しかし、僕自身は、今年1年でどれくらい変われたでしょうか。変われたことも変われなかったことも、変えなくてよかったのに変えてしまったことも、この機会に振り返ってみようと思います。この記事を読んで誰かのタメになったとか、誰かに勇気を与えたとか、そんな大層なことを望んでいるわけではないです。ただただ今年を振り返って、来年に向けて気持ちを新たにする。ただそれだけのポエムです。

変わったこと

アカペラに割く時間が大きく減りました。コロナ前は本当に毎週アカペラしていましたが、今ではスタジオに入るのは月に1回ないと思います。実質自然消滅してしまったバンドも数知れず、この情勢でモチベーションを保つことの難しさを感じました。アカペラをせずとも意外と人生楽しんでいる自分に気づき、落ち込んだりもしました。それでも個人的にポジティブだったのは、自分のアカペラへの取り組み方を客観的に見返す時間が取れたことです。とりあえず毎週の予定をこなすようにアカペラをしていた状態から抜け出し、なぜ自分はアカペラをやっているのか、何に楽しみを感じているのかをじっくり考えることができました。

その結果、自分のアカペラモチベを、仕事などアカペラとは関係ない部分と関連づけて言語化できるようになりました。すごく抽象的な言い方をすれば、僕は基本的に何にでも納得したい人で、自分が納得感を得るために、逆にいえばまだアカペラでは納得できてないからアカペラを続けてるんだと思っています。ではどこまで行ったら納得するのか、それは納得するまでわからないんですよね。これがまた難しいところなのですが。

一方で、アレンジへのモチベーションが消滅しました。と言ってもこれは割とポジティブな話で、信頼できるアレンジャーと出会ったことで、自分はアレンジではない部分で戦うべきだと思えるようになりました。ある程度アレンジへの知見があって、楽譜を解釈して自分なりの表現を模索することができれば、僕はアレンジに関しては十分です。なんでもやらないと気が済まない僕にとって、アレンジに関しては納得することができたのは大きな進歩でした。

変わらなかったこと

アカペラでなくても言えることですが、基本的にお尻に火がつかないと動けないのはずっと変わっていません。3月に多録動画を1本上げられたのは卒業式シーズンでないと意味がない企画だったからだし、あれをやりたい、これをやりたいと言い続けて幾星霜、結局他人に迷惑をかけてはいけないとか、言い出してしまったから動き出さねばみたいな感じで切羽詰まらないと動けないのは悪い癖です。

バンド運営が下手なのも全然変わっていません。メンバー集めや、オーディションに向けて計画的に練習を重ねることへの知見はずいぶん溜まってきたのですが、メンバーの気持ちをおいてきぼりにせずにバンドを進めていくことがどうにも難しいです。逆にいえば難しいからこそやる意味があると思っていて、最近はこの部分にモチベーションを感じています。

それから、これはあまり同意してくれる人が多くないのですが、録音やMVなどの成果物を残すことにはいまだにとても興味があります。学生の頃はオーディションのたびに渾身の音源を作成し、先輩に聞いてもらってフィードバックをいただいたものですが、こういう渾身の音源とフィードバックの積み重ねで今があると思うし、何より数年経ってから昔の音源を聞くのって最高にエモくないですか?

2021年に向けて

今はコロナ禍でも活動できるバンドに恵まれ、そのバンド1つのみで活動しているという状況ですが、現状プライベートの時間の中でアカペラに割く時間の割合がちょうどよく、このバランス感覚は大事にしたいです。

一方で、現状維持は後退、お尻に火がつかないと動けないのなら、自分で火をつけてしまえばいいですね。やりたいことに少しずつ、でも着実に取り掛かっていく1年であるといいなあと思います。せっかくなのでやりたいことを備忘録的に残しておこうと思います。

  • リード力を上げる:先日友人の結婚式にいって感動し、自分の結婚式で1曲リードを取るのが夢になりました笑 何年後に結婚できるか知りませんが、来たるべきときに向けて準備しておきたい。
  • バーバーショップカルテット:アカペラでやることの意味ってバーバーショップに凝縮されていると思っています。できればテナーがやりたいけど、どうやったらロングトーンを鍛えられるのかさっぱりわからん。
  • オリジナル曲を書く:カバーしかできないようじゃ音楽への関わり方が浅すぎると思うんですよね。だけどこれこそ自分の納得いくものが出せるまで沼にハマりそう。
  • MV制作:MTRを使って対面で録音し、ミックスしてそれに映像をつけるところまでやってみたい。レコーディングだとまたちょっとやりたいことと違う気がする。

これら全てに取り組んでいると絶対時間が足りないので、ひとつひとつやっていきたいです。まだ当分アカペラやめられそうにないですね。


このコロナ禍でアカペラのモチベーションを失い、途方に暮れたり寂しさを感じたりしている人もいるかと思います。大してうまくもないのに社会人になっても未練がましくアカペラを続けている姿を見せていくことで、そういう人たちがまたアカペラに前向きに関わってくれるようになれば嬉しいです。

ということで宣伝なのですが笑、このたび「ハスノウテナ」というバンドでアカスピEX社会人全国大会に出演させていただくことになりました。学生時代活躍できなかった社会人の悪あがき、思う存分楽しみたいと思います。冷やかしにきていただけると嬉しいです。

大学院で身につくもの

この記事は、東京大学航空宇宙工学科/専攻 Advent Calendar 2019 19日目の記事です。

修論締め切りまで1か月を切っているというのに正直ブログなんて書く暇ないんですが……。今日の担当にした1か月前くらいの自分を殴りたい。

さて、航空宇宙出身として何が書けるかってぼくには院試と進路系の話しかないわけです笑 去年は院試に落ちた話をしました。 今回は、航空宇宙を飛び出して情報系の専攻に進んだ身として、「大学院で身につくもの」について考えていきたいと思います。

航空宇宙を飛び出した経緯

就活の面接では、「どうして航空宇宙から情報系に進んだの?」とよく聞かれました。まあ履歴書をみたら当然聞きたくなりますよね。 こちらも答えをばっちり用意してある鉄板の質問なのでありがたいのですが、答えとしてはだいたいこんな感じになります。

  • 周りの人を見ていると、自分はそんなに宇宙に熱がなかったことがよくわかった
  • 航空宇宙は様々な分野の統合として成り立っている分野であり、良くも悪くも広く浅くということになりがち
  • 大学院に進むからには、分野としての専門性を身に着けたい
  • 院試当時は情報系の分野をいずれは勉強したいと思っていたし、卒論も情報分野寄りのテーマにしていた

要は「専門性を身に着けたい、航空宇宙では専門性は身につかない」と言って分野を変えたといっても過言ではないのですが、修論に追われる今、果たして専門性は身についたのか、考えてみようと思います。

大学院で身につく専門性

大学院で研究をすることによって身につく専門性とは何でしょうか。

そもそも「専門性」の定義があいまいなので議論のしようもないのですが、「その人しか全貌を知らない分野についての知識や、その人しか扱うことのできない技術」という定義にすると、専門性というのは所属するコミュニティにおける相対的なものであることがわかります。たとえば今ぼくがいる研究室で「画像処理の専門性がある」とは口が裂けても言えませんが、アカペラサークルで「画像処理について専門で研究しています」というのは言ってもいいことだと思います。アカペラの活動の中で画像処理の知見が生きるタイミングがもし来るのだとすれば、その際は「画像処理の専門」としてつたないながらも何かしら発言することはできる(発言することを求められる)のかなと思います。まあそういうわけで「専門性」とはあいまいな概念ですが、ここでは「社会全体で見たときの専門性」くらいの解釈にとどめておこうと思います。つまり、ぼくが「アカペラについて専門性がある」といっても(言葉の使い方に違和感がありますが)許されるということだとします。

話を戻すと、「大学院で研究をすることによって身につく専門性」について考えるならば、大学院でしか身につかない知識について考える必要があります。 研究室に所属していれば自分が行う研究の方向性はある程度定まるので、自分の研究のベースとなる分野の基礎知識については勉強しやすい(勉強せざるを得ない)環境にあることは事実かと思います。また、情報系であればたいていは研究対象のシステムを構築し、それに対して実験なりなんなりを行っていく流れになるかと思いますので、システムを構築する際のノウハウというのは少しずつたまっていくでしょう。

しかし、これらは何も「大学院でしか身につかない」かといわれると疑問が残ります。本当にやる気があるならばひとりでも研究はできますし、実際研究室や研究所に所属していないながらも研究をしている人も、多いとは言いませんがいることは事実です。

大学院で身につくもの

書店で教科書を買って読んだり、論文を読み漁ったり、学会に参加したりというのは大学院に行っていなくても(お金さえあれば)できるわけです。大学院で身につくのは専門性とはちょっと違うのかもしれません。となれば、大学院に通う意義とは何か。たぶん一般的には先生から指導を受けられることになるんだと思います。

数百字の論文概要を書くだけでも、主語と述語の一致、口語的な言葉の回避、冠詞の使い方、などなど大抵初稿は真っ赤になって返ってきますし、ひとたび学会参加が決まれば、効果的なスライドの使い方、論理展開の微調整、ポスターに載せるべき内容、デモ展示を準備するノウハウ、などネットの海からちゃちゃっと探してくるにはさすがに無理がある内容を学ぶ必要があります。いわゆるソフトスキルを洗練させるのが大学院なのかなあという印象を持っています。

大学院に行く意義がないといっているわけではありません。大学に行かなければそもそも研究の何たるかを知ることは一生ないでしょうし、ぼくみたいな凡人にとっては、実験器具やその使い方のノウハウ、研究費、場合によっては研究テーマも含めてかなりの部分でお膳立てをしてもらって、それでやっとのことで書くことができるのが論文というものであることは痛感しています。

内定者として就活のイベントに参加させていただく機会があり、そこで学生から「大学院に行くか迷っている」と相談を受けたことがありました。曰く、大学院に進んで専門性を身に着けたほうがいい会社に入りやすいのか、あるいは早く働いて経験を積んだ方がいいのか、わからなくなっているとのことでした。

今その学生の質問に答えるとしたら、

  • そもそも修士は2年しかないのでぶっちゃけ大差ない
  • 大学院で身につくのは専門性というよりもソフトスキル
  • 学部で勉強している内容と仕事にしたい内容がかけ離れており、仕事にしたい内容について大学院で学ぶことができるのであれば、院進する意義はあるかも
  • あとは分野による()

という感じになるかと思います。大学院に進んでいなければ得られなかった経験はとても多いのですが、それは必ずしも専門性ではない、というか専門性が身につかなくたって大学院に行く意義はあると思うよ(修論はつらいけどね)、というお話でした。

アレンジャーで読書会をやってみた話

この記事は、アカペラアドベントカレンダー3日目の記事です。

自己紹介

ヴェルディと申します。

  • 大学院修士2年で、来年就職予定。アカペラは6年目
  • ArtifacTone、カンパリオレンジ、Eureka!、アレンジャーの会所属
  • 主にベース、ときどきパーカス。高音を伸ばしたい
  • アレンジをします

今回は、アレンジャーの会のメンバーとして、読書会を主催している話をしようと思います。

アレンジャーの会とは

このアドベントカレンダーの初日を担当してくださったみやけんさんが主宰のオンラインアレンジャーコミュニティです。メンバーはアカペラのアレンジャーが多いですが、管弦楽や合唱の方もいらっしゃいます。

活動内容はかなり多岐にわたります。

  • オンライン(チャット)
    • 日頃感じている疑問について議論
    • エモいコード進行やオススメの理論書をシェア
    • アレンジを投稿してアドバイスをもらう
    • みんなで一斉に同じ曲のアレンジをする
  • オフライン
    • みんなのアレンジを肴に飲む
    • 一堂に会してアレンジをする「もくもく会」の実施
    • プロの楽譜の分析
    • ワークショップやオフ会を企画

などなど、という感じです。いい意味で変態の多いコミュニティですし、外部を巻き込んで開催するワークショップやオフ会ではその道のガチプロにお会いできることもしばしば。チャットに参加すれば今日からあなたもアレンジャーの会会員。ご興味を持っていただいた方はぜひご連絡ください。

読書会について

ということで本題です。アレンジャーの会では、月1回程度のペースで読書会を行なっています。

  • 課題図書と1回分の分量、担当者を決定
  • 担当者は担当分の内容をパワポにまとめてアップロードし、読書会の場で解説
  • 質問や議論などご自由に

という流れです。いわゆる輪読会ですね。現在の課題図書は『コード理論大全』です。

読書会を始めるにあたって

みやけんさんから提案があって始めた読書会なのですが、体制を整えるにあたっていくつか重視していたことがありました。

  1. 参加できなかった回があってもキャッチアップできること
  2. 首都圏外の方や、電車に乗っている方でも参加できること
  3. 発表したものは個人としての実績として発表できるものであること

後述の通り3.についてはまだ実現ができていないのですが、以上を踏まえて、

  • スライドは slideshare に限定公開でアップロード、リンクをシェアする
  • 読書会は skype にて実施
  • skype でのやり取りは録画

という形式をとっています。

良かった点

継続的に読み続けられる

分厚い本を読み切るのってなかなか大変ですよね。意気込んで理論書を買うも気が付いたら本棚の肥やしになってしまったとかあるあるだと思うのですが、1か月に1回読書会がやってくることで読み進めるきっかけを与えてもらえるのはすごくいいことだと思いました。ほかの参加者もいることで強制力も生まれますしね。

わかりにくい点を解消しながら進められる

今回扱っている『コード理論大全』は内容がすごく濃いのですが、その分初見ではわかりづらい表現がたびたび登場します。そういう点をお互いに確認しながら進められるのも、継続のハードルを下げている要因だと感じます。

書籍を読むと、定着度がいい

理論書は体系だって説明がされており、何度でも繰り返しかみ砕くことができるので、人から口頭で教えてもらうよりも納得して吸収できる度合いが高い気がしています。skypeでチャットをしているので、そのとき説明されている項目を楽譜に書き起こして実際に聞いてみることも容易です。発表者は、人に説明するということで理解の度合いをあげる必要に迫られるため、負担に見合った学習効果を得られると感じています。

今後の課題

発表者の負担が大きい

発表者以外には特に義務を課していない(読んできていない人向けに発表するという形式をとっているため)のですが、発表者は

  • 読んで
  • スライドの準備をして
  • 当日発表する

という流れをすべて行わないといけません。内容が想像以上に難しかった場合は特にかなりしんどい作業になるかと思います。

次回の読書会からは発表者を2人に設定し、わからないところはお互いに解決してもらったり、分担して担当してもらったりできるようにしていますが、根本的解決にはなっていないように感じます。 ちなみに1か月1章のペースで実施しているので、このペースを落としてしまうと1冊に1年以上かかってしまうんですよね、、

初心者がおいてきぼりになりやすい

バックグラウンドによって理解度に差が生じてしまい、またすでに音楽理論について学んだことのある人が発表者になりやすいため、初心者がおいてきぼりになりやすいという問題点があります。1冊目が終わったあと、コード理論から離れて和声やリズムなどにトピックをずらすのか、もう一度コード理論の本を扱うのかについてはきちんと議論したいと思っています。

個人の実績として発表できるか?

発表者の負担は大きいので、せっかく発表するなら個人の活動として紹介できる形が望ましいと考えて slideshare を利用しているわけですが、そもそも他人が書いた書籍の解説スライドをネットに掲載していいものか?という問題があって調査中です。詳しい方教えてください。

アドバイスください

というわけで手探りながら読書会を主催しているというお話でした。似たようなイベントに参加されている方など、運営にアドバイスいただければ幸いです!

アレンジャーの会への参加も歓迎します!TwitterのDMなど、お気軽にご連絡ください!


明日12/4の担当は かずま さんです!

有声ボイパについて書いていただけるようです!ぼくはボイパからアカペラに入ったクチなのですが、有声は全然できないんですよね、、そういうレベルの話じゃないだろうけど。乞うご期待!

フッ軽って哲学的じゃない?

なんか師走っぽい話題ですね。

 

「フットワークが軽い」とは、ここでは「飲み会などの誘いを断らない」ことだとします。

飲み会の予定を断らないということは、その誘いがあった日は予定が空いていたということだと思うんです。

「来週の土曜日飲みに行こうぜ」

「おー空いてるからいいよ」

来週土曜日の夜に飲み会が入りました。すると、来週土曜日の夜は予定がある状態になります。

なにを言っているんだと思われるかもしれませんが、この状態で別の人から土曜日の夜に飲み会に誘われたとすると、

「あーごめん、その日あいつと飲むからパスで」

影分身できない限りフットワークは軽くなりません。要するに、フットワークが軽い、つまり予定が空いているという状態は、予定を入れてしまった瞬間に崩れるわけです。これが「フッ軽は哲学だ」と言っている真意です。

 

当然ですが、フットワークが軽いと飲み会に誘われやすくなります。来てくれそうな人を誘いたくなるのが人情というものでしょう。飲み会に誘われやすいと、その分いろんな人と知り合い、仲良くなる機会が増えます。飲み会に限らず、人生のチャンスを生み出すひとつの要因としてフットワークの軽さというのがある気がしているのですが、ここで自分のカレンダーを見返してみると、1か月先の予定はたいてい埋まっているという現状に気づかされます。これでは自分のフットワークは重いと言わざるを得ません。上の議論が正しいとすれば「来月のフットワークは軽い」とかいう状況が起こりうるはずなのですが、どうやらフットワークの軽さとはそういうものではないみたいです。

 

ひょっとして、「フットワークが軽い」というのは印象でしかないのでしょうか? いま自分から見てフットワークが軽いあの人も、職場の飲み会には全然参加しない「付き合いの悪い人」である可能性も十分あります。とすると、「このコミュニティではフットワーク軽くありたい」みたいなものを各々調整しているのでしょうか?

あるいは、「極限まで予定を詰め込むことがフットワークの軽さだ」という人もいました。「月曜から一週間始まるから日曜夜の飲み会はやめとこ」などというのではなく、「空いてるから飲み会行けるわ」という考え方そのものがフットワークの軽さだと。そういう意味でいえば、馬鹿みたいに予定を詰め込んでいる僕は、もしかしたらフットワークが軽い部類になるのかもしれません。

 

とはいえ、入れられる限り極限まで予定を詰め込むのが必ずしも褒められた行為だとも思いません。人の誘いのままに予定が埋まっていく人生は「他人に生かされている人生」だと思いますし、ときにはひとりで気ままに時間を使うのも大切だと思います。すでに予定が入っているもののこのイベントには絶対に行きたいみたいなのは往々にしてある話ですし、「やりたくないことをやっている時間はねえ」とは言われるものの、期待値が低かった飲み会がめちゃくちゃ有意義だったということもあるあるかと思います。そのあたりの時間の使い方ってみんなどうしてるんでしょうか。財布を分けて家計を管理するように、仕事の飲み会は月何日までとか、アカペラの練習は月何回までとか、そういう感じで制限を加えた結果空いた時間を自分のために使うとか、そういうことが大事なんでしょうか。わからん。

 

やりたいことばかりたまっていって現状取り組んでいることは何一つ成し遂げられていないことを考えると、いくら時間があっても足りない、人生って短いなあと思うのですが、悩める若者にアドバイスをください。

BIT VALLEY 2019 に参加しました

ものづくりカンファレンス「BIT VALLEY 2019」に参加してきました。 公式サイトはこちら

今回は、3つの目的意識のもとに参加をしました。

  1. 学生のうちに何をすべきかについて情報収集すること
  2. キャリアプランの観点から、様々な職種の話を聞くこと
  3. 日本でソフトウェア産業に携わるにあたって何を考えるべきなのか情報収集すること

1. 学生のうちに何をすべきか?

結論から言うと、エンジニアならば「遊びとしてのプログラミング」をしておけ、とのことでした。社会人の基礎力は学生のうちに身につくものであり、また、業務でプログラミングしていると、土日までプログラミングしようとはなりにくくなるそうです。お聞きした方は「もっとイラレとか触っておけばよかった」とおっしゃっていました。

「本業と関係ない勉強をしておけ」というのはたびたび言われますね。

2. 様々な職種の話を聞く

今回は「ものづくりカンファレンス」ということで、コテコテのエンジニア論だけでなく、デザイナーやPM/PO向けのセッションが少なくありませんでした。

いくつか感じたことを列挙してみます。

エンジニアとして:やっぱりテックリードの方面は向いてなさそう

企業ブースで「このコードを実行すると何が表示されますか?選んでください」みたいな問題が出されていて、多くのエンジニアが議論を交わしていたようですが、正直そういうことにあまり興味が持てませんでした。読みにくいコードなんだから書いた本人に訂正させろよ、という気持ちになってしまったわけです。

就活時からずっと言ってることですが、正直プログラミングにツールとしての意味合い以上のものを感じることができません。プログラミング自体は好きですけど、それはあくまでも物ができた達成感が好きということです。エンジニアとして働く以上もう少し深いところまで知っておくべきなんでしょうけど、特に今論文ばっかり書いているのでその気が強いのかも。

PMとして:やりたいことをやること

キャリアを意識してPMのセッションを聞きに行った割には、今スタッフ代表として携わっているアカペライベントについての話に置き換えて聞いていました。我々は何がしたいのかはっきりさせ、時にはバチバチしあいながらイベントを作っていくというのは、なかなか稀有な経験をしているのではないかと。もう学生も終わりますが、今の環境を大事にしたいと思いました。(イベントスタッフについてはあまり話をしていないので、何のことやらわからない人も多いと思います。機会があれば記事にしようと思います。)

「ロジカルに詰めていくだけでは差別化のできないプロダクトが出来上がる」というのもなかなか印象的でした。

3. 日本でソフトウェア産業に携わるということ

ソフトウェア産業で海外に後れを取っている日本において、その産業にかかわっていく我々は何を考えていくべきなのか。深圳に行ってからずっと考えていることです。

  • いちプレイヤーとして:「良い子」である必要はない。世間的な評価や常識に埋もれてしまった自らの欲望を掘り返し、やりたいことをやろう。無駄なことをしている時間はない。(圓窓 澤さん)

  • 組織作りをする人として:海外の組織は、合理的な決定をトップダウンで強制的に実行する力が強い。社員はブーブー言いながら、なんだかんだ従っていく。(Google 岩尾さん)

  • 日本人として:新しいテクノロジーが生まれたときに、肯定して乗っかっていくこと。そのための心の余裕を作ること。(亀田さん)

  • 英語が苦手な者として:日々英語に触れること。そのために、得意なことと組み合わせて英語に触れるハードルを下げること。英語が母語でない人と話すことの方が多いので、頑張って話していれば気持ちを分かってくれる。(DeNA 田中さん)

特に英語については、自信をもって使い続けていくことが一番大事なんでしょうね。


文章を推敲しているとどんどんアウトプットのハードルが上がるので、ちょっと乱文ですがこんな感じで。研究の方も忙しいですが、キャリアについても考える時間を取りたいと思います。